当山は欽明天皇檜前の里清水谷邨丘皇宮跡にして、山号を宝光山、寺号を冷水寺といい、西室院はその院号であります。
冷水寺は大宝二年五月、行基菩薩の開基と伝えられています。弘法大師はこゝに留錫せられ、御弟子真然僧正に命じて寺門の建立に努力せられました。淳和天皇天長二年八二五勅命により、久米益田池の御築造のみぎり偶々御足を傷められ、困惑しておられましたところ、この地に湧出する霊水を発見せられ、御足を洗い給えば足痛直ちに快癒せられ、恙なく益田池の築造を成就せられたと伝えられています。
当院本尊不動明王は弘法大師御留錫の御時一夜の御作と傳えられ一切の悪魔を降伏する身代不動明であります
。冷水寺は隆盛に赴き、宝光院、華蔵院、松室院、吉祥院、正蓮院、常喜院、宝憧院、西室院等々が塔頭として建立せられるに至りました。
越智邦澄がその父戦死の後遁れ来って高取築城(六百三十数年前)まで育てられたのは、実にこの宝光山でありました。
それより越智氏との関係はいよいよ深く、後、常喜院がその手によって建立せられ菩提寺となり、霊鷲寺と改められました。かくて繁栄その極に達し、冷水寺千軒と呼ばれ、冷水寺金堂より東西南北千軒四方冷水寺の境内也と呼ばれるに至ったのであります。(越智系譜伝)
しかし、栄枯盛衰は世の習いとて、冷水寺も次第に衰運を辿る。
現京都東山音羽の清水寺は、当山冷水寺金堂と南清水寺通常観音院金堂を同じに坂ノ上田村麻呂小島寺延鎮僧都に帰依し、延暦十三年七九四甲戌の五月、京東山音羽に清水寺移建すとあり。(壺阪寺、子嶋寺、冷水寺縁起に名記)
当山本殿は文政二年己卯の仁孝天皇二年春、焼失。庫裡は先々代輪翁僧正のとき、大和の変の際(約百年前)天誅組の使者那須信吾が高取藩月家老と折衝した俵屋陣屋の家を移建して今日に至って居ります。太平記に一三三一、元弘元年八月二十七日後醍醐天皇京嵯峨御所を出所、吉野へ安住の途上、笠置寺本堂皇居に定める時、同じく吉野に在住せる大塔宮護良親王冷水寺一山僧兵出堂、天皇護守の為、笠置へ出兵、木津川一帯で足利尊氏の大軍と激戦。笠置落ちて親王は河内赤坂の楠木氏へ逃れる。昭和五十二年二月十一日本殿再建に着工。九月一日完工、九月末護摩堂改体、檀信徒の総力を結集して再建に努力、意外にも旧護摩堂屋根板に欽明天皇檜前の里清水谷邨丘皇宮跡と名記あり。
元弘二年護良親王住板書を発見、護良親王は僧名(尊雲)元弘二年秋後醍醐天皇は尊氏一族の手により入京、これより七年後延元三年八月十六日大塔宮尊雲護良親王鎌倉へ軟禁殺害の事あり。
当山は天長二年淳和天皇より勅願の拝命あり。
当山は坂ノ上田村麻呂誕生寺也。
当院は山号を宝光山寺号を冷水寺といゝ西室院はその院号でありまして元は冷水寺の一塔頭でありました、冷水寺は行基菩薩の開基と伝えられます。(越智系譜)。
弘法大師はこゝに留錫せられ御弟子真然僧正に命じて寺門の建立に努力せられました。淳和天皇天長二年勅命により益田池の御築造のみぎり偶々御足を痛められ困惑しておられましたこころこの池に湧出する靈水を発見せられ御足を洗い給えば足痛直ちに快癒せられ恙なく益田池の築造を成就せられたと伝えられています。爾來冷水寺は隆盛に赴き宝光院西室院正蓮寺常照寺など塔頭として建立せられるに至りました越智邦澄がその父戦死の後遁れ來つて高取築城(六百二十数年前)まで育てられたのは実にこの宝光院でありました。それより越智氏との関係はいよいよ深く常喜院吉祥寺その手によって建てられ常喜院はその菩提寺となり靈鷲寺と改められました。かくて繁榮その極に達し冷水寺千軒と呼ばれるに至ったのであります(越智系譜)しかし榮枯盛衰は世の習いとて冷水寺も次第に衰運を辿り残るもの僅かに常喜院常照寺と当院の三院となりそれぞれ単独に現在に至ったのであります。
当院の御堂は元の護摩堂だけが残っていますが庫裡は先代輪翁僧正のとき大和の変の際(約百年前)天誅組の使者那須信吾が高取藩月家老と折衝した俵屋陣屋の離座敷を移建して今日に至って居ります。
上述の如く当山冷水寺西室院は淳和天皇天長年間天皇御腦の御平癒を祈願し奉りて後天皇の勅願寺となったのであります曾て当山鎮守であった清水神社は興正菩薩の勸請にかゝり清水谷邑は冷水寺の門前町として発展したのでありますが後当神社は同邑の鎮守となって居りますその坤隅にある閼伽井は当院均識律師の穿ったところであります。
当院麓壺坂川にかゝって不動の滝があります当院衰微して一時山武士寺となった際大峰登山の行者は先ずこの瀧に行じ当院に参籠して後吉野へ向かったのであります又早天に農夫は藁で作った大龍をかつぎ来てこの瀧に浸し更に邑中をかつぎ廻って雨乞をしたと伝えられています。